1983年のFM-7 80年代PCゲームの思い出その1
1980年代、マイコンブームが発生した。 マイコンって、マイクロコンピューターの略で、パーソナルコンピューターと言われるようになるまではマイコンと言われていた。
マイコンブームのきっかけはなんだったんだろう?
すがやみつる先生の『こんにちはマイコン』はきっかけのひとつに挙げられるだろう。
ゲームセンターあらし経由のこんにちはマイコン
すがやみつる先生といえばコロコロコミックに1978年から連載されていた伝説のマンガ、『ゲームセンターあらし』で有名だ。
インベーダーゲームのブームが1978年なので、どんぴしゃのタイミングで連載が始まったゲームセンターあらしは子供達のハートを鷲掴みにした。
インベーダーゲームをはじめとしたアーケードゲームを出っ歯の主人公、石野あらしが必殺技で攻略する、という内容だが、もっとも有名な必殺技のひとつ、『炎のコマ』はゲームの処理速度を超えたスピードでレバーを動かすことで誤作動させ、自機の当たり判定をなくしてしまう、という技だが、あまりの超高速で行われる操作のため摩擦熱で発火する、というトンデモ技なのだが、なぜかなんとなく出来そうな感じがした。
[caption id="attachment_809" align="alignnone" width="300"] 炎のコマ[/caption]
実際にマイコンを所有して遊んでいたすがや先生はCPUのクロック数以上の入力があればあるいはこんなことも…というところから生まれたアイデアだと何かの本でみたことがあるが、それなりの理屈のようなものがあったからこその説得力だったんだろう。
ちなみに炎のコマ以外にも必殺技として『水魚のポーズ』とか
『ノーブラボイン打ち』とかあるわけだけど、
[caption id="attachment_814" align="alignnone" width="300"] ノーブラボイン打ちの使い手はあらしの母ちゃん。[/caption]
この辺はリングにかけろで言う『ギャラクティカマグナム』のような技の作用が良くわからないので真似できない、という類のものだった。
[caption id="attachment_810" align="alignnone" width="280"] BAKOOOON!と炸裂するギャラクティカマグナム以降、車田先生は必殺パンチの原理の説明を放棄。[/caption]
当時の小学生がインベーダーなどのアーケードゲームを頻繁にやれたか?というと全然そんなことはなくて、ゲーセンにはほぼ100%ツッパリの怖いお兄さんたちがいて、子供が行った日にはカツアゲされる、というのがごく普通だったので、ゲームをしたいとしてもなかなかの覚悟が必要だったし、少ないお小遣いでゲームはなかなかできなかったのが現実だった。
[caption id="attachment_823" align="alignnone" width="300"] 当時のゲーセンはこんな感じでワルの匂いがした。[/caption]
このような状況はおそらく全国的なものだったと思うので、ほとんどのコロコロコミックであらしに夢中だった子供たちは主に想像の中でゲームを楽しんで、たま~に家族で旅行にいったりしたときにホテルのゲームコーナーにたまたまあったゲームをやらせてもらう、みたいな感じだったのではないかと思う。
つまり、すがやみつる先生は当時の小学生にとってエヴァンジェリストだったと言える。
『こんにちはマイコン』が与えた影響の大きさ
そんなすがや先生があらしのキャラクターを使って書き、1982年に発表された学習漫画が『こんにちはマイコン』と『こんにちはマイコン2』だ。
[caption id="attachment_812" align="alignnone" width="212"] これが伝説の『こんにちはマイコン』だ![/caption]
これは凝り症で1978年にはマイコンを手に入れて夢中になっていて家族にマイコンを触ることを咎められたというすがや先生がマイコンについてのマンガをかけばマイコンを触っても文句を言われないだろう、ということで書かれたといわれる名作だ。
NECの入門マイコン、PC-6001を使ってBASICで簡単なプログラムを作ったりするという内容の本で、子供むけっぽい体裁けどきちんとした入門書になっていた。 そして中には当時各社から発売されていたマイコンのカタログが載っていたり、マイコンが普及した10年後(=1992年)の世界の予想なんかが載っていて、子供だった私はものすごく興奮した。
これはマイコンを手に入れないと、と思ったのだ。
みずの書店のMZー80Bとテキサスゾーン
私をマイコンへと向かわせたもう一つの要因といえば、みずの書店だ。
正確にはみずの書店にあったシャープのパソコン、MZ-80Bだ。
[caption id="attachment_808" align="alignnone" width="300"] シャープの人気機種だったMZ-80B[/caption]
当時、私の小学校周辺にはブックス古賀という本屋があったが、そこに新勢力としてできたのがみずの書店だった。
昔ながらの本屋、という体裁のブックス古賀に対してみずの書店はアニメ雑誌や音楽雑誌など趣味性の高い本の品揃えが豊富で、マンガの立ち読みを容認していたので小学生たちに人気だった。
しかし私がみずの書店に行くのは立ち読みが目的ではなかった。
MZ-80B、正確にはMZー80Bでガンダムのゲーム『TEXAS ZONE』をプレイするのが目的だった。
[caption id="attachment_806" align="alignnone" width="300"] これが『TEXAS ZONE』。版権的にはグレー…というか黒でしょ。[/caption]
シャープから発売されたMZー80Bはグリーンのモニターとデータレコーダーが一体形になったパソコンだった。
注)PC-6001の頃はマイコン、という呼称だったものがこのあたりからパソコン、になった気がする。
パソコンにガンダムのゲーム、子供にとって2つの大好物を武器にしたみずの書店は一躍人気の書店になった。
TEXAS ZONEはその名の通り、ガンダムでいうところのテキサスコロニーあたりでの戦闘を模したと思われるゲームで、ガンダムのコクピットからの視点でリックドムを打ち落とす、というものだった。
[caption id="attachment_811" align="alignnone" width="300"] リックドムを打ち落とす、というゲーム。[/caption]
今の基準で考えたら大しておもしろくないゲームなんだけど、皆アムロ気分でこのゲームをプレイした。
すがや先生が『こんにちはマイコン』で示したマイコンの未来像がここに結実した、そんな感じだった。
8ビットパソコンが群雄割拠
1983年、小学6年生の時にパソコンを購入した。
原資として貯金していたお年玉、14万円があって、足りない分を親に出してもらうという形になった。
結局のところゲームがやりたい、という視点で見るとNECから出ていたPC-8801がベストチョイスになるが、モニターまで入れたら30万円くらいになってしまうので、選択肢から除外せざるをえなかった。
[caption id="attachment_824" align="alignnone" width="284"] 憧れのPC88は高すぎた...[/caption]
そこで12万円前後の8ビット機から選ぶ、ということにした。
候補となったのが下記の3機種。
・FM-7(富士通) ・PC-8001mkⅡ(NEC) ・Pasopia7(東芝)
『こんにちはマイコン』で出てきていたPC-6001は後継機種のPC-6001MkⅡが出ていたけれど、スペック的にこの3機種に劣っている感じがしたので、除外した。
[caption id="attachment_817" align="alignnone" width="225"] テクノポリス1983年8月号[/caption]
最終的に決め手になったのがこの雑誌、徳間書店から出ていた『テクノポリス』の1983年8月号。
この号に上記の3機種を含む当時の8ビットパソコンのベンチマークが掲載されていた。
ベンチマークではFM-7とPasopia7がいい勝負をしていて、迷った結果、FM-7に決定。
[caption id="attachment_818" align="alignnone" width="208"] FM-7はタモリがキャラクターだった[/caption]
最後まで迷ったPasopia7は27色、6重和音などを強調したが、その後ソフトがあまりリリースされなかったことを考えるとFM-7で正解だった。
[caption id="attachment_819" align="alignnone" width="209"] Pasopia7は横山やすし&一八親子がキャラクター。[/caption]
この頃、各社がパソコンを発売していたがどれもソフトの互換性がないため、機種選びに失敗するとソフトがまったくない、ということになりかねなかった。 Pasopia7もゲームソフトが相当少なかった気がするがそれでもまだいいほうで、三菱が同時期に発売したマルチ8という機種などはソフトが販売されていたかどうかも怪しかった。
そういう意味ではPC‐8801が最も安全と言えるが、前述した通り金額的に無理があった。
そこで本体価格が126,000円だったFM-7にしたわけだが、富士通はFM-7にさきがけてFM-8という機種を1981年に出していて、FM-7は互換性のある廉価版という位置づけだった。
FM‐7は1982年11月に発売されていて、私が購入した1983年夏の時点では既にそれなりの数のソフトが出ていたし、マイコンBASICマガジンでも投稿プログラムが安定して掲載されていたのでユーザーもそこそこいるという判断を私はしたわけだが、小学6年生にしては中々のものだ。
モニターが7万円位だったと思うので、なんだかんだで20万円程の買い物だったはず。
FM-7は高性能で低価格という路線でヒット機種となり、富士通をNEC、シャープとともにパソコン御三家という地位へと押し上げた名機だった。
これで念願のパソコンを手に入れた私は様々なゲームをプレイすることになるが、それは次回以降。