憧れのAPPLEⅡとゆう坊のでたとこまかせ!
パソコンより前はアニメに夢中だった。
きっかけはガンダムだった。当時はファーストガンダム、なんていう言い方はなかった。
ガンダムの再放送でガンプラブームが起きた
機動戦士ガンダムの本放送は1979年、私は確か小学2年生だったはず。 土曜日の17:30~18:00がサンライズの放送枠で、仙台では東日本放送が放送したようだが、本放送を見た記憶が全然ない。
翌年1980年になると平日の夕方17:00頃から再放送があり、皆が夢中になった。 そして空前のガンプラブームが起きた。
最初に入手したガンプラはホワイトベースで、近所の山田文具で二つ上の兄と一緒に買った。山田文具はゴールドラッシュよろしく連日詰めかけた小学生で溢れ、ガンプラの予約帳は何ページも先まで埋まっていた。
そして兄と私はアニメファンになった。 ガンプラブームが落ち着いた頃、ガンダムは劇場版映画になった。
三部作となった劇場版ガンダムの1作目は1981年の3月公開で、さらにガンダムブームが盛り上がっていくわけだが、1作目公開後に兄がアニメ雑誌、アニメックの別冊『ガンダム大辞典』を買ってきた。
[caption id="attachment_911" align="alignnone" width="218"] これがガンダム大辞典[/caption]
TV放送のストーリー解説や設定資料、冨野監督のインタビューなどが載っていた、と思うが、それまで知らなかった情報に痺れ、クラスの友達に得意になって説明したりした。
これでアニメ誌の存在を知った兄と私はまだ公開されていない劇場版ガンダム2作目、3作目の情報を求めてアニメ誌を購読するようになっていく。
アニメージュ、ジ・アニメ、アニメディア、…アニメ雑誌を買う日々
ガンダムのことを知りたくてアニメ雑誌を買い始めた兄と私。 アニメ誌を買うきっかけになったアニメックは近所のみずの書店やブックス古賀では売っていなかった。 そこでレギュラーとなったのが『アニメージュ』で、そのうち『アニメディア』や『ジ・アニメ』も買うようになった。
[caption id="attachment_912" align="alignnone" width="209"] ゴッドマーズが大人気だった[/caption]
[caption id="attachment_913" align="alignnone" width="207"] ブライガーも恰好良かったな[/caption]
そんな中、位置づけ的には第4のアニメ雑誌だったのが『OUT』だった。
月の少ないおこずかいで2人で3冊のアニメ誌を買っていたわけだから、予算的に4冊を買うということはなかったはずだけど、たぶんたまたま表紙がガンダムだった、とかそんな感じで月刊OUTを手に取り、購入したのが初めての出会いだったと思う。
[caption id="attachment_907" align="alignnone" width="216"] これは1983年、バイファムの最終回記念号[/caption]
最初に月刊OUTを買ったのがいつなのか、はっきり覚えていないが多分1981年の後半か、1982年だろう。小学4年生から5年生になるあたりの私だったが、それでも月刊OUTがその他のアニメ雑誌とちょっと違う、ということはわかった。
元々はアニメ雑誌ではなくてサブカル誌だったというOUTだが、その読者投稿コーナーはサブカルとアニメが好きな読者、アウシタンで盛り上がっていた。
その中に『ゆう坊のでたとこまかせ!』というコーナーがあり、担当していたのが後に『ドラゴンクエスト』を作ることになる堀井雄二氏だった。
月刊OUTのサブカル臭に惹かれ、兄と私は『ジ・アニメ』を辞めてOUTを買うようになった。
ある号、ゆう坊のでたとこまかせ!でゲームが紹介されていた。 投稿を管理するために購入したパソコンのゲームが面白すぎる、という内容だったが、紹介されていたゲームは『ウイザードリィ』だった。
大うらやましがり大会の巻、と題されたその記事はそれほど長いものではなかったけれど、紹介されていたゲームはものすごく面白そうで、ものすごくやってみたかった。
[caption id="attachment_908" align="alignnone" width="300"] これが問題の記事[/caption]
アップルというパソコンで遊べるらしいこのウイザードリィの記事は私を掴んではなさなかった。 この記事が掲載された号が私のFM-7購入の前か後か、ちょっとはっきりしないのだけれど、たぶん購入前だったのではないかと思う。1982年から1983年の夏あたりの記事のような気がする。
月刊OUT 1983年11月にパソコンゲーム特集が!
それまでどんなビジュアルのゲームなのかわからず、想像しているだけだったウイザードリィのゲーム画面を初めてみたのもOUTだった。
1983年11月号にパソコンゲーム特集が組まれたのだ。担当は堀井雄二氏だった。
[caption id="attachment_904" align="alignnone" width="177"] OUTのゲーム特集記事[/caption]
掲載されていたウイザードリィのビジュアルは洋ゲー特有のそれまで見たことがないタッチで、いつか絶対にプレイしたい、と思わせるパワーがあった。 その他、アップルⅡのゲームとして『ピンボールコンストラクションセット』が掲載されていた他、堀井雄二氏自身の国産機向けの作品『ポートピア連続殺人事件』などが紹介されていた。
アップルⅡは当時40万位した?
この号が出た時には既にFM-7を購入していた私だが、テクノポリスやベーマガなどのPC雑誌の広告を見る限り、アップルⅡはとても高かった。多分本体だけで40万円以上したのではないか?
さらに当時はコンパチ機が一般的だったようで、パソコン誌の後半に掲載されていたアップルⅡ関連の広告にはコンパチ機(KEGANI、とかいう名前を良く見た気が…)のものが多かったように思う。
LODE RUNNERがきっかけで洋ゲーの情報が増えてくる
1983年の秋頃、APPLEⅡ向けのゲームとしてLODE RUNNERが発売される。
[caption id="attachment_915" align="alignnone" width="300"] 後にファミコンにも移植される名作[/caption]
※今までLOAD RUNNNER、だと思い込んでいたけど、実際はLODE RUNNERだった
150面というステージ数の多さ、パズルゲーム的な思考を要求するこのゲームは世界的にヒットし、ほとんど同時に国産機種でも移植版がリリースされた。
この頃にアップルⅡには他にも面白いゲームがいっぱいあるよ、というような記事がパソコン雑誌にもたくさん掲載されるようになってくる。
ロードランナー、チョップリフター、アズテック、それから日本人のゲームデザイナーの人がつくったAE、なんていうシューティングゲームもあったはず。
富士通FM-7の思い出 ミステリーハウスにスターフリート!
FM-7を手に入れた私。 [kanren postid="803"] 本体のおまけとして庄子電気のお兄さんがプレゼントしてくれたのはハドソンの野球拳という非常に微妙なゲーム。小学6年生に野球拳かよ。
最初に買ったゲームはミステリーハウス
そこで購入したゲームは『ミステリーハウス』だった。
ミステリーハウス、というタイトルのアドベンチャーゲームは下記の二つがあった。
1.AppleⅡのソフトとしてSierra On-Line社が発売していたもの
2.日本の会社、マイクロキャビンが国産機向けに発売していたもの
1についてはスタークラフトという会社が国産機向けに移植版を出していたものの、フロッピーディスクがないと遊べなかった。
2については多分国内で初めてのグラフィックありのアドベンチャーゲームだったはずで、すがやみつる先生の『こんにちはマイコン』で紹介されていたというのもあり、かなりヒットしていたはず。
そこで2のマイクロキャビンのミステリーハウス・FM-7版を購入することにした。
[caption id="attachment_889" align="alignnone" width="300"] これが国産最初のアドベンチャーゲームかな?[/caption]
英単語を入力して屋敷の中を探索し、金庫の中のダイヤモンドを手に入れる、というようなゲームで単純な絵柄のゲームだったけれど、始めて遊ぶアドベンチャーゲームは刺激的だった。
VASE、とかCHAIR、SERCHとか英単語を覚えたのもこのゲームが初めてだった。
このゲームは最初に数字を入力させられるが、この数字によって必要なアイテム隠し場所が変わり、毎回探す楽しみを味わえるという仕組みになっていた。
しかし、最後の金庫を開けるために数字を入力する必要があるが、その数字がなんなのか最後までわからず、結局ダイヤを入手して屋敷の外へ出るエンディングには一度もいけなかった。
でも、その直前のところまでたどり着くだけでもとても楽しかった。
このゲームのミソは何度も遊べる、というところだったと思う。
このころのアドベンチャーゲームというと話は分岐せずに一本道となっていて、謎解きというよりは単語探しのような作業になることも多く、一度わかってしまうとそこまでは同じ手順でたどり着けるというものだったので、一度エンディングまでいったアドベンチャーゲームをもう一度楽しく遊ぶのは難しかった。
しかし、このミステリーハウスは前述したように多少違う展開をするので、まあ2回目、3回目も楽しく、長く遊ぶことができた。
テクノソフトのスターフリートはスタートレックのパクリゲー
ミステリーハウスの後、買ったソフトはスターフリートというソフトだった。
[caption id="attachment_890" align="alignnone" width="207"] スタートレックのパクリゲー[/caption]
当時、私の住む仙台市でPCソフトを扱っている電気店は地元の庄子電気、小松電気くらいしかなく、このソフトは庄子電気で購入した。
しかもこれがどうしても欲しい、というわけではなく、店舗においてある中から面白そうなものを選ぶ、という買い方だった。
パッケージを見ると宇宙もので、今ならスタートレックを模したゲームなんだな、とわかるところだが、仙台の小学6年生にはスタートレックの情報が届いていなかった。
パッケージのプレイ画面を見るとワイヤーフレームっぽい感じの3D視点のシューティングゲーム、という感じが伺えた。
[caption id="attachment_891" align="alignnone" width="300"] スターフリートのプレイ画面[/caption]
例のみずの書店であそんだMZ-80Bのソフト『TEXAS ZONE』を思わせるその感じで購入を決めた。
ちなみにパッケージには敵となる異星人の名前の部分に『エイリゴン』というシールが貼ってあった。不思議に思った私は購入後、そのシールをはがしてみた。すると下には『クリンゴン』と書いてあった。
クリンゴンは本家スタートレックの敵、クリンゴン星人だけど、スターフリートも敵の名前をクリンゴンのままでいろいろ作っちゃってたんだろう。 1983年の話ではあるけれど、やっぱり版権的にヤバい、ということになったと推察。でも、パッケージには思いっきりスタートレックと書いてあるけど。
このゲーム、ある一定の星域内にいるエイリゴンの宇宙船を索敵しながら打ち落とす、というゲームでリアルタイムSLG、とでもいうようなシステムで今考えたらかなりいい感じのゲームだったと思うけれど、小学6年生には難しかった。というかスピード感に欠けるゲームだった。
敵が画面上に見えない、探す必要があるということやゲームそのものの世界感が良くつかめなかったのかもしれない。
そういうわけでこのゲームもエイリゴンを壊滅においやり、宇宙に平和をもたらしたことはなかった。
フライトシミュレーター&スペースビー
小学6年生がゲームソフトを頻繁に買うのは難しかった。
しかし、スターフリートが当時の私にとってハズレだったという経験から、ソフトを買う場合には熟考しなくてはならない、と思った。
そこで次に購入したのがキャリーラボが発売したフライトシミュレーター&スペースビー。
これはワイヤーフレーム描画のフライトシミュレーターと当時アーケードゲームで人気だったナムコのギャラガのようなシューティングゲームがセットになっていた。
[caption id="attachment_896" align="alignnone" width="234"]ナムコの傑作、ギャラガ[/caption]
フライトシミュレーターがなんとなく面白そうだけどすぐには決着がつかない、スピード感に欠けるゲームのような感じがしたけれど、そのワイヤーフレームはとても興味を引いた。
[caption id="attachment_893" align="alignnone" width="300"] ワイヤーフレームが好きだった[/caption]
そこにスペースビーだ。
スペースビーはシンプルなだけにある程度遊べるだろう、という保険の働きをして私の背中を押した。
実際に購入後に遊んだ感想は購入前の印象通りで、フライトシミュレーターは操作が難しく、標的に爆弾を落として基地に戻って着地するまでが1セットのはずだけど、標的に爆弾が命中したこともなければ最後に着地に成功することもなかった。
姿勢の制御が難しいし、ある意味ではリアル過ぎたのかもしれない。
それでもいかにもパソコン、という感じのフライトシミュレーターはなんというか、大人のやる遊びをやっている感を小学6年生にもたらしてくれ、上手くいかないながらも何度もチャレンジすることになった。
当時、同じクラスに横田君という友達がいて、彼が時々遊びに来たが、彼は新谷かおる先生の『ファントム無頼』が好きで、主人公の神田になり切って遊ぶのはいいのだが、私にナビをやらせて『栗さん』と栗原役をやらせるのが妙に恥ずかしかった。
スペースビーは見たままのシンプルなシューティングゲームで、結果としてはフライトシミュレーターよりもこっちで遊ぶことが多くなった。
何人か友達が来たときにもスペースビーならかわりばんこに遊ぶことができた。
AppleⅡと洋ゲーへの憧れ
この頃、アドベンチャーゲームが大流行した。
キー入力制御の問題からアクションゲームを苦手としていたFM-7ではアドベンチャーゲームが多数リリースされていくが、前述のミステリーハウスのあたりからAppleⅡの存在を知るようになった。 時系列が良く思い出せないが、当時アニメ好きでもあった私が買っていた『月刊OUT』に後にドラクエを作ることになる堀井雄二氏がゆう坊のでたとこまかせ!という連載コーナーで熱くウィザードリィについて語っていたことがあり、いつかこのゲームで遊びたい!と強烈に思ったのがAppleⅡについての初めての情報だったようなそうではないような…
1983年のFM-7 80年代PCゲームの思い出その1
1980年代、マイコンブームが発生した。 マイコンって、マイクロコンピューターの略で、パーソナルコンピューターと言われるようになるまではマイコンと言われていた。
マイコンブームのきっかけはなんだったんだろう?
すがやみつる先生の『こんにちはマイコン』はきっかけのひとつに挙げられるだろう。
ゲームセンターあらし経由のこんにちはマイコン
すがやみつる先生といえばコロコロコミックに1978年から連載されていた伝説のマンガ、『ゲームセンターあらし』で有名だ。
インベーダーゲームのブームが1978年なので、どんぴしゃのタイミングで連載が始まったゲームセンターあらしは子供達のハートを鷲掴みにした。
インベーダーゲームをはじめとしたアーケードゲームを出っ歯の主人公、石野あらしが必殺技で攻略する、という内容だが、もっとも有名な必殺技のひとつ、『炎のコマ』はゲームの処理速度を超えたスピードでレバーを動かすことで誤作動させ、自機の当たり判定をなくしてしまう、という技だが、あまりの超高速で行われる操作のため摩擦熱で発火する、というトンデモ技なのだが、なぜかなんとなく出来そうな感じがした。
[caption id="attachment_809" align="alignnone" width="300"] 炎のコマ[/caption]
実際にマイコンを所有して遊んでいたすがや先生はCPUのクロック数以上の入力があればあるいはこんなことも…というところから生まれたアイデアだと何かの本でみたことがあるが、それなりの理屈のようなものがあったからこその説得力だったんだろう。
ちなみに炎のコマ以外にも必殺技として『水魚のポーズ』とか
『ノーブラボイン打ち』とかあるわけだけど、
[caption id="attachment_814" align="alignnone" width="300"] ノーブラボイン打ちの使い手はあらしの母ちゃん。[/caption]
この辺はリングにかけろで言う『ギャラクティカマグナム』のような技の作用が良くわからないので真似できない、という類のものだった。
[caption id="attachment_810" align="alignnone" width="280"] BAKOOOON!と炸裂するギャラクティカマグナム以降、車田先生は必殺パンチの原理の説明を放棄。[/caption]
当時の小学生がインベーダーなどのアーケードゲームを頻繁にやれたか?というと全然そんなことはなくて、ゲーセンにはほぼ100%ツッパリの怖いお兄さんたちがいて、子供が行った日にはカツアゲされる、というのがごく普通だったので、ゲームをしたいとしてもなかなかの覚悟が必要だったし、少ないお小遣いでゲームはなかなかできなかったのが現実だった。
[caption id="attachment_823" align="alignnone" width="300"] 当時のゲーセンはこんな感じでワルの匂いがした。[/caption]
このような状況はおそらく全国的なものだったと思うので、ほとんどのコロコロコミックであらしに夢中だった子供たちは主に想像の中でゲームを楽しんで、たま~に家族で旅行にいったりしたときにホテルのゲームコーナーにたまたまあったゲームをやらせてもらう、みたいな感じだったのではないかと思う。
つまり、すがやみつる先生は当時の小学生にとってエヴァンジェリストだったと言える。
『こんにちはマイコン』が与えた影響の大きさ
そんなすがや先生があらしのキャラクターを使って書き、1982年に発表された学習漫画が『こんにちはマイコン』と『こんにちはマイコン2』だ。
[caption id="attachment_812" align="alignnone" width="212"] これが伝説の『こんにちはマイコン』だ![/caption]
これは凝り症で1978年にはマイコンを手に入れて夢中になっていて家族にマイコンを触ることを咎められたというすがや先生がマイコンについてのマンガをかけばマイコンを触っても文句を言われないだろう、ということで書かれたといわれる名作だ。
NECの入門マイコン、PC-6001を使ってBASICで簡単なプログラムを作ったりするという内容の本で、子供むけっぽい体裁けどきちんとした入門書になっていた。 そして中には当時各社から発売されていたマイコンのカタログが載っていたり、マイコンが普及した10年後(=1992年)の世界の予想なんかが載っていて、子供だった私はものすごく興奮した。
これはマイコンを手に入れないと、と思ったのだ。
みずの書店のMZー80Bとテキサスゾーン
私をマイコンへと向かわせたもう一つの要因といえば、みずの書店だ。
正確にはみずの書店にあったシャープのパソコン、MZ-80Bだ。
[caption id="attachment_808" align="alignnone" width="300"] シャープの人気機種だったMZ-80B[/caption]
当時、私の小学校周辺にはブックス古賀という本屋があったが、そこに新勢力としてできたのがみずの書店だった。
昔ながらの本屋、という体裁のブックス古賀に対してみずの書店はアニメ雑誌や音楽雑誌など趣味性の高い本の品揃えが豊富で、マンガの立ち読みを容認していたので小学生たちに人気だった。
しかし私がみずの書店に行くのは立ち読みが目的ではなかった。
MZ-80B、正確にはMZー80Bでガンダムのゲーム『TEXAS ZONE』をプレイするのが目的だった。
[caption id="attachment_806" align="alignnone" width="300"] これが『TEXAS ZONE』。版権的にはグレー…というか黒でしょ。[/caption]
シャープから発売されたMZー80Bはグリーンのモニターとデータレコーダーが一体形になったパソコンだった。
注)PC-6001の頃はマイコン、という呼称だったものがこのあたりからパソコン、になった気がする。
パソコンにガンダムのゲーム、子供にとって2つの大好物を武器にしたみずの書店は一躍人気の書店になった。
TEXAS ZONEはその名の通り、ガンダムでいうところのテキサスコロニーあたりでの戦闘を模したと思われるゲームで、ガンダムのコクピットからの視点でリックドムを打ち落とす、というものだった。
[caption id="attachment_811" align="alignnone" width="300"] リックドムを打ち落とす、というゲーム。[/caption]
今の基準で考えたら大しておもしろくないゲームなんだけど、皆アムロ気分でこのゲームをプレイした。
すがや先生が『こんにちはマイコン』で示したマイコンの未来像がここに結実した、そんな感じだった。
8ビットパソコンが群雄割拠
1983年、小学6年生の時にパソコンを購入した。
原資として貯金していたお年玉、14万円があって、足りない分を親に出してもらうという形になった。
結局のところゲームがやりたい、という視点で見るとNECから出ていたPC-8801がベストチョイスになるが、モニターまで入れたら30万円くらいになってしまうので、選択肢から除外せざるをえなかった。
[caption id="attachment_824" align="alignnone" width="284"] 憧れのPC88は高すぎた...[/caption]
そこで12万円前後の8ビット機から選ぶ、ということにした。
候補となったのが下記の3機種。
・FM-7(富士通) ・PC-8001mkⅡ(NEC) ・Pasopia7(東芝)
『こんにちはマイコン』で出てきていたPC-6001は後継機種のPC-6001MkⅡが出ていたけれど、スペック的にこの3機種に劣っている感じがしたので、除外した。
[caption id="attachment_817" align="alignnone" width="225"] テクノポリス1983年8月号[/caption]
最終的に決め手になったのがこの雑誌、徳間書店から出ていた『テクノポリス』の1983年8月号。
この号に上記の3機種を含む当時の8ビットパソコンのベンチマークが掲載されていた。
ベンチマークではFM-7とPasopia7がいい勝負をしていて、迷った結果、FM-7に決定。
[caption id="attachment_818" align="alignnone" width="208"] FM-7はタモリがキャラクターだった[/caption]
最後まで迷ったPasopia7は27色、6重和音などを強調したが、その後ソフトがあまりリリースされなかったことを考えるとFM-7で正解だった。
[caption id="attachment_819" align="alignnone" width="209"] Pasopia7は横山やすし&一八親子がキャラクター。[/caption]
この頃、各社がパソコンを発売していたがどれもソフトの互換性がないため、機種選びに失敗するとソフトがまったくない、ということになりかねなかった。 Pasopia7もゲームソフトが相当少なかった気がするがそれでもまだいいほうで、三菱が同時期に発売したマルチ8という機種などはソフトが販売されていたかどうかも怪しかった。
そういう意味ではPC‐8801が最も安全と言えるが、前述した通り金額的に無理があった。
そこで本体価格が126,000円だったFM-7にしたわけだが、富士通はFM-7にさきがけてFM-8という機種を1981年に出していて、FM-7は互換性のある廉価版という位置づけだった。
FM‐7は1982年11月に発売されていて、私が購入した1983年夏の時点では既にそれなりの数のソフトが出ていたし、マイコンBASICマガジンでも投稿プログラムが安定して掲載されていたのでユーザーもそこそこいるという判断を私はしたわけだが、小学6年生にしては中々のものだ。
モニターが7万円位だったと思うので、なんだかんだで20万円程の買い物だったはず。
FM-7は高性能で低価格という路線でヒット機種となり、富士通をNEC、シャープとともにパソコン御三家という地位へと押し上げた名機だった。
これで念願のパソコンを手に入れた私は様々なゲームをプレイすることになるが、それは次回以降。